チェルノブイリからのSOS
チェルノブイリの原子力発電所が、1986年に大爆発を起こしたことはよくご存知だと思います。そのとき、ちょうど吹いていた北風に乗って、ウクライナ共和国から、境界を越えて、ベラルーシ共和国のゴメリ州一帯に、死の灰が降り落ちました。
ベラルーシから、「助けて」というSOSが入ってきました。当時、ぼくは大変忙しく、いったんはお断りしたのですが、1991年、とうとうロシアの大地に足を踏み入れました。まず、モスクワにあるロシア科学アカデミーのヒトロフ教授を訪問しました。ヒトロフ教授は、ぼくたち日本人が初めて訪ねていったにもかかわらず、チェルノブイリで起きた惨状を、ありのままに情報公開してくれました。その頃、まだKGBが大手を振っていたはずのこの国で、これほどまでに手の内をあかしてくれた教授の真摯な勇気に、ぼくはある種の感動をもって聞いていました。そのとき、もしかするとこの国は変わり始めるのかなとも思いました。
教授は、いちばん汚染が激しいチェチェルスクという町の名前を告げ、外国の支援がひとつもはいっていない、大変な汚染地帯へ行ってほしいと言ったのです。
ヒトロフ教授の同僚のグズネソフ教授は、別れ際にぼくの手を握りしめて言いました。
「『ひとりの子どもの涙は、すべての人類の悲しみよりも重い』と、ドストエフスキーは言っています。今、チェルノブイリの子どもたちが泣いています。悲しいことに、この国の大人たちはチェルノブイリの子どもたちを救えません。日本の医療者に期待しています・・・」
そのとき、ぼくは静かに決意しました。チェルノブイリの子どもたちを救いたい、と。あれから、またたく間に15年の歳月が流れました・・・。

ぼくは今も自問しています。一人の子どもの涙と人類の悲しみについて。
放射能汚染地帯で、ぼくは何ができるか考えました。日本の地で実践してきた地域医療のスタイルを、国際医療協力に役立てられないだろうか。ぼくらが信州の、人口5万6千人のいなか町でプライマリ・ヘルスケアを行ったように、40キュリー以上の放射能の高汚染地がある人口4万人のチェチェルスク市(現在は移住が進み、1万7千人になっている)を支援していきたい。そこの白血病患者が送られていくゴメリ市や、首都ミンスクなどと連携しながら支援することを決めました。 ベラルーシの人々が、自分たちの力で、大切な子どもの「命」を守っていくことができるようにする。そんな自立支援を目標にして、ぼくらの活動はスタートしました。そして、有志を募って、JCF(日本チェルノブイリ連帯基金)というボランティア団体を創設しました。資金繰りに苦労しながらも、なんとか運営を続けています。